どのようなことが問題だったのか、考えてみました
西方電撃戦が開始されてからドイツ空軍は陸軍の支援とフランス空軍の殲滅に従事しながら、イギリス本土に散発的な航空攻撃を実施していた。しかし、ドイツ本土からでは航続距離の関係から護衛に戦闘機を随伴させることができなかったため、夜間空襲に限られていた。夜間では地上目標を確認することが困難であったため、ドイツの爆撃機は効果的な空襲をすることができなかった。イギリスの戦闘機も軽爆撃機ブレニムを改造してレーダーを搭載した急造夜間戦闘機があったものの、旧式化したブレニムではドイツの爆撃機に振り切られることの方が多かった。爆撃機をサーチライトで照射して昼間戦闘機のハリケーンで撃墜させる方法もあったがサーチライトの数も少なく、夜間に対抗できるのは高射砲のみであったが高射砲も十分な数とは言いがたかった。
1940年6月25日にフランスと休戦条約が締結され、ドイツ軍はフランス北部沿岸と西部沿岸一帯を占領地として獲得、旧フランス軍の空軍基地をそのまま対英前進基地として使用できるようになった。
7月10日の朝、偵察機を護衛するドイツ戦闘機Bf 109Eと、これを迎撃に向かったイギリス戦闘機スピットファイアとの空戦がバトル・オブ・ブリテンの始まりと言われている。同日の午後にはドーバー海峡付近を航行するイギリスの船団を巡って空戦が行われた。翌11日にドイツ空軍の攻撃隊が30から50機ほどでイギリス南東部の港湾に襲来し、12日にはイギリス海峡を航行する船団を攻撃した。
降伏勧告に近い和平案に対し回答を伸ばすことでイギリスは時間を稼いだ。その間、イギリス特有の悪天候に悩まされ、港湾や船団に対するドイツ空軍の攻撃は低調に終わった。しかし、7月16日にヒトラーはイギリス本土上陸作戦の準備を命じ、22日に行われたイギリスの国会演説で和平案が拒否されると、ドイツ空軍は海上封鎖に本腰を入れるようになった。特に25日に行われたイギリス海軍の駆逐艦の護衛する輸送船団に対する攻撃では、10隻近い艦船が被害をこうむり、イギリスは夜間を除いて船団の海峡通行を禁止した。
ドイツ空軍の艦船攻撃は戦闘機と爆撃機のみで行われ、爆撃機を改修して航空魚雷を搭載させることはあっても本格的な雷撃機は保有していなかった。連日のようにイギリスの船団が攻撃を受けていたにも関わらず比較的少ない被害で済んだのは、ドイツ空軍が雷撃機の開発を怠っていたことに起因するという見方が強い。一方でイギリス空軍はレーダー網である防空ダウディング・システムをフルに活用して港湾の上空で迎撃し、基本的に待ち伏せすることができた。実際、ドイツ空軍とイギリス空軍の7月中に行われた空戦の損失割合は概ね2対1で、ドイツ空軍には爆撃機や偵察機が多数含まれるものの、イギリス空軍の戦闘機軍団が善戦する機会に恵まれた。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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